武田勝頼が土佐に残した足跡
武田勝頼(大崎玄蕃)

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武田勝頼土佐の会



 土佐の武田勝頼(大崎玄蕃)伝説(クリックすると、ページ一番下まで飛びます)



 武田勝頼(たけだ かつより)

 戦国最強の武将と称えられた偉大な父、信玄の子として、数多の武勇伝を残す。
 甲斐武田家第20代当主。そして武田家最後の武将である。
(上)武田勝頼、(左下)夫人、(右下)武田信勝

 
 ■
生まれ

 (父)武田信玄(たけだしんげん)は、源氏の棟梁である源義家の弟、新羅三郎義光を祖とする武家の名門の生まれ

 (母)諏訪姫(すわひめ)は、諏訪氏は諏訪大社大祝(おおほふり)の一族である。
大祝とは諏訪明神の化身、現人神として諏訪大社の神職の頂点に位置していた役職。
諏訪氏の諏訪頼重は、武田信玄によって滅亡させられるが、その娘である諏訪姫に惚れ込み側室とする

ここに、類い希なる勇将である武田勝頼(たけだかつより)は、
天文15年1546年)に(父)武田信玄、(母)諏訪姫との間に誕生する
信玄の4番目の子という事で名を「四郎」(後の勝頼である)付けられる。

 そして「四郎」(後の勝頼)の誕生により諏訪家の存続が約束されたのである。

 永録5年(1562年)に父の寵愛を受けていた武田勝頼は17歳で元服諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。
この頃「諏訪四郎」と名乗る



  初 陣

 永禄6年1563)、18歳での上野攻略で華々しい初陣を飾る

 箕輪城を攻める前日、敵の斥候武者5騎が自軍に近寄って来たのを見て、わずか2騎で斬り込んで敵1騎を撃ち落した。
そこに敵勢50人くらいが突撃してきたので、勝頼を見守っていた家臣がその兵をもって追い散らした。

  初陣で果敢に突撃した勝頼の武者振りや、この戦いでの武勇を武田軍の誰もが
  「倫を離れし挙動」「匹夫の勇」と賞して褒め称えられている。

 永録8年(1565) 11月織田信長であり養女と結婚する。

 永録10年(1567)の10月に兄・義信が幽閉先の東光寺にて死去、その後に武田信玄は勝頼(諏訪四郎)を後継ぎにと考える。

 11月に御曹司・信勝(のぶかつ)が誕生するが、母(織田信長の姪)は難産の為死亡。
 慌てた織田信長は。武田信玄の娘と自分の嫡男の婚約を願い出ているが、両家の関係悪化により、破談となる。

 武田信勝であるが、信玄はそれを祝い、武田氏と信長の血をひく信勝を後継ぎと定めて、勝頼は16歳になるまでの後見を命じられる。

 勝頼が正式な後嗣とならなかったのは、諏訪氏の名跡を継いでおり、また織田氏との関係、父である信玄を神格化して勝頼を同格と見なさない家臣団をも考慮してのものであった。

だが、勝頼を正式な後継者としていなかった事が、後に家臣団の更なる不和を招く事となってしまう。

 元亀2年(1571)の3月頃に勝頼(諏訪四郎)は高遠城を出て、甲府に戻り『武田四郎勝頼』として父の帷幕に列席する様になる。




  (父)武田信玄の死去

 元亀4年(1573)、(父)武田信玄が没すると、武田勝頼は事実上の世継ぎと成る。
 ここに信玄派・勝頼派の対立が始まる。

信玄は「自分の死を三年は隠し通し、その間に国力を養え」と遺言したと言われている。
 
 徳川家康は信玄の死去の真偽を確かめる為に武田方の拠点であった長篠城を落として挑発してきた。
つまり、信玄死去の情報は、既に他に漏れていたという事になる。




  武田勝頼の快進撃

 天正2年(1574)2月には、信玄の遺言を尊重する重臣の制止も振り切って出陣。

 東美濃の織田領に侵攻し、18もの支城を次々と攻略し明智城を落とした。

 織田信長は嫡男・織田信忠と共に明智城の援軍に出陣しようとしたが、それより前に勝頼が明智城を落としたため、信長は岐阜に撤退した。
 
 徳川家康遠江では、信玄でさえも落とせなかった要害・高天神城を攻め落とし、東遠江をほぼ平定した。

 「高天神を制すものは遠江を制す」と言われた戦略上の重要拠点である。

 誰もが信玄の時代よりも強くなったと囁き、その全盛期を誇った。

 織田信長「四郎は若輩に候といえども、信玄の掟を守り、表裏たるべくの条、油断の儀なく候」と評価された。




 (父)武田信玄の葬儀

 天正3年(1575)遺言通りに3年間は信玄の死去を隠し通して、ついには葬儀が行われると、
信玄の死去を知るいなや武田氏を見限って、他家に寝返る者が続出し、更には重臣までもが徳川氏に寝返り長篠城(ながしのじょう)は徳川家康のものとなった。

 更には、信玄の死去の噂が先行しておった為に、武田信玄の築いた包囲網は既に無く、
織田信長の支配下に組み込まれていた。この時、信長の勢力は2倍近くに増強されていた。

 父、武田信玄が神格化され、余りにも大いなる存在であり、信玄が死去したとの情報が漏れていたという事の影響は大変大きい。

 武田勝頼を、信玄が死去する前に、正式に跡継ぎと決めていなかった事が、
父信玄最大の過ちであるとする見方も少なくない。




  長篠(ながしの)の戦い

 長篠の戦にて武田家は大敗する。

 信玄の死去を知ったとたんに、徳川家康の元へ寝返った元家臣(奥平)の裏切り行為を勝頼は許す事ができなかったはずである。 後継ぎとしてのプライドもあったであろう。
 そして、天正3年(1575)5月に、勝頼の長篠城攻略に向けた戦いが始まった。

 優勢な数で長篠城を取り囲み、攻防を続けるが、予想外の粘りを見せる。

 兵糧倉庫を奪う事に成功し、兵糧攻めを開始する。こうなると、長篠城も時間の問題である。

 しかし、兵糧攻めの完成よりも早く、信長と家康の連合軍三万幾千の兵が、長篠城の近くの設楽原に到着した。
 これでは城攻めどころではなくなったのである。

 敵軍の圧倒的な数と、自軍の内乱等の要因もあり、とても不利な状況と判断した重臣達は撤退を進言し、勝頼を諫(いさ)めたが、勝頼は軍を退ける事を恥として決戦に臨む決断をする。
 
「御旗楯無、ご照覧あれ」(勝頼が決戦の誓いを立てた言葉である)
御旗は平安の頃から伝えられる源氏の象徴である白旗で武田家の家宝である。 楯無の鎧もまた、代々の家宝である。 
この二つの前で誓った言葉は決して覆せないと言うのが、武田家の暗黙のルールであった。

 5月21日、設楽ヶ原に布陣した武田軍であったが決戦当日の朝に徳川軍が武田軍に奇襲をかけ、長篠城に入り、武田軍の背後を取った。

 退路を断たれ、挟み撃ちの状態となった武田軍は進む他に道は無く、設楽ヶ原にて突撃。

 その結果、敵1000挺の鉄砲に攻撃されて、多くの名将らを失い、壊滅的な敗北を喫し、武田軍は命からがら甲府に退却したのである。

 大敗の後であるため、一時は家康に対して軍を進める事は出来ず、謀略等を企てている。

 天正5年(1577年)、父(信玄)の宿敵であった、上杉謙信と同盟を結び、
同じ年に同盟を強化するために、後妻として勝頼は北条氏政の妹を正室に迎えた。




 御館(おたて)の乱

 天正6年(1578)越後上杉謙信が病死すると、謙信の二人の養子である景虎(かげとら)と景勝(かげかつ)との間で家督(かとく)を巡り御館の乱が起こる。

 勝頼は、妻の兄であり、景虎の実兄である北条氏政の要請が有り、景虎の支援をし調停を試みるが、自陣営が不利となり、更には景勝から好条件の同盟(金)の話しが有り、外交方針を転換して、景勝の支援にまわり、景勝の勝利となった。
 そして勝頼の妹の菊姫を景勝に輿入れしている。
 天正7年(1579沼田城陥落させる等の活躍をしている。

 影虎は自害する事となり、北条氏との関係が悪化し対立することになる。
北条氏は徳川氏と手を結んでしまい、勝頼が同盟を結んだ上杉氏は先の内紛で国力が低下しており、援軍が出せる状態ではなく、武田氏の勢力は益々衰え、苦境に追い込まれる。

 また同年(1579)には、勝頼(かつより)の子である信勝(のぶかつ)の元服も行った。




 武田家の滅亡への道

 天正8年(1580)。窮地に追い込まれている状態を考慮し、本拠地を躑躅ヶ崎館から新府へ移し、
 天正9年(1581)の暮れ近くに新府城に入城し、そこで新年を迎える。

 天正10年(1582)織田信長は徳川家康、北条氏政にはたらきかけ、武田討伐の軍をおこす。
 このとき織田軍に抵抗したのは勝頼の弟仁科盛信(にしな もりのぶ)だけである、

 仁科盛信の家臣の者達が武田勝頼を討伐して、諏訪家の再興をと考えていたのに対し、最後まで兄の勝頼の味方をし、鳥居峠の戦いで戦死。
 その他武田一族の者は城を捨て逃亡する。

 (勝頼の弟)盛信の戦いぶりは「比類なき働き、前代未聞の次第なり」と敵方の織田信長公記でも絶賛され、後世に語り継がれた。

 
 天正10年(1582)3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡。
 その時に甲斐の有力国人で一門衆小山田信茂と、信濃国人である真田昌幸が、勝頼を受け入れることを表明した。

 もはや、甲府を支えきらぬと見た勝頼は親戚の小山田氏を頼って敗走したが、肝心の小山田氏が寝返ったため、行き場を失った勝頼達は、武田家ゆかりの地である天目山に向かった。
 天目山中にて織田方の追手と戦って、ついに自害する。

 この時最後までしたがって戦ったものわずか40数名。武田勝頼37才である。

 以上が武田勝頼、武田家の滅亡として広く知られております。


 そして土佐の伝説へ(↓)



ここから土佐に語り継がれる、武田勝頼の土佐落人伝説の始まりであります。

  

武田勝頼 土佐落人伝説




 土佐の伝説では、勝頼は天目山では自害してはおらず、影武者を使った事が言い伝えられています。


 天正10年(1582) 信長の軍に負けた武田勝頼の一行(子供と家臣数人)は、
 上野国利根郡(現在の群馬県利根郡)に一時は隠れます。その後、諸国を巡ります。 (系図より)

 武田家の末裔である香宗我部家(こうそかべけ)の住む土佐(四国の高知県)へ向かう事となります。

 土佐では早くから、武田氏の先祖が入ってきて根を張っており、武田の姓を改めて香宗我部と成り、四国統一の中心武将となり各地で活躍を見せていた。


 無事に土佐に入った後は住み処を次の様に移している。

 先ずは立川峯際空石 → 植田村西屋敷 → 大谷村 → そして楠目大法寺に移住したとあります。

 楠目大法寺は、現在の高知県の香美市(旧土佐山田町)であり、 武田家の家臣であった中原秋家(なかはらあきいえ)の地でした。後に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の弟が養子として入り香宗我部を継ぐ。

 その山田で、住民の娘に惚れて懐胎をさせます。男子を出生、後の末裔である証として母(懐妊された女子)に金の茶碗(ちゃわん)、金の笄(くし)をあたえ置くとあります。

 現在でも、山田では末裔の方が存在しておるとの事です。

 勝頼が香宗我部氏を頼って来た事は当然の事ながら長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)も知っていた事であろう。

 長宗我部元親は戦国の勢力争いのため、多くの落ち武者を受け入れていたとも考えられている。

 しかし、元親にとってはそれは豊臣秀吉(とよとみひでよし)に知られたくないことであり、
 従って吾川山庄の高吾北地方より広く支配している片岡氏を紹介され、勝頼は武田家の再興を願い西へと向かい、越知町芝尾村(現在の柴尾)に一時期住んだと考えられる。

 天正11〜12年(1583〜1584)吾川郡安居の奥の樫山(かしやま)にこもる。

 天正12年(1584)、樫山から南東に位置する吾川郡大崎の寺村に移る。




 ■片岡氏の衰退と、武田勝頼(大崎玄蕃)の出現


 天正12年2月8日、寺村より西へ下り大崎の川井に移り、住所を定める。
 この時に「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と名乗る。

 天正13年(1585) 豊臣秀吉との戦い(金子の陣)に参戦していた片岡氏片岡光綱(かたおかみつつな)は、この戦いの中で7月7日に自害。

 同じく天正13年(1585)寺村に武田家の先祖を祀る為の菩提寺(流光山成福寺)を建立(こんりゅう)する。
 現在でも流行山成福寺(跡)には、「観音堂(かんのんどう)」と聖観音立像(平安時代)【町指定文化財】が現存している。
 本堂は成福寺の跡に建っているとされ、寛永15年(1638)観音堂を修理した旨の古い棟札が残されています。
旧暦の2月25日には行事と餅まきなどが行われている。


 天正14年(1586) 片岡氏最後の頭首である片岡光政九州豊後の戸次川の戦いで戦死する。
勝頼もこの合戦に参戦したと言われている。

 片岡光政の死後、勝頼(大崎玄蕃)達職業武士が当地の実権を握り片岡氏の政務を支えていたと考えられる。

 同じく天正14年(1586)に勝頼は、川井に「川井神社」(またの名を武田城八幡宮)(現在の大崎八幡宮)を建立する。
 この時の神社の初代神官の名は、岡林甲斐守源勝貞(おかばやし、かいのかみ、みなもとのかつさだ)という。

 この神社の場所は、南と西を仁淀川土居川に挟まれた小高い山で、川側は絶壁となっており、天然の要塞(ようさい)である。
北と東は、なだらかな地形で城下町となっており、長い石段が城下町の方に配置されている。

 また、大崎の名の通り、大きな岬(みさき)でもあり、川からの船で物資を運ぶ為の港町として賑わっていた。

 この大崎八幡宮には、高野山に奉蔵されている武田勝頼の肖像画に描かれている紋所と同様の花菱家紋入り手鏡が奉納されている。

 勝頼は、父の信玄が亡くなってから武田氏が滅亡するまでの約10年間に、武田家の家紋を自分流に作り変えたのではと思われる。

 また、神像として、武田家元祖12名を祀ったと記されている。
 破損が激しいが木の神像が10体現存している。
 今でも縁日には、神官によって昔ながらの祭祀が行われ、子孫達の繁栄も祈願されている。

 これらの建立事業は、片岡氏の後ろ盾があって実現したものであろうし、玄蕃周辺の人々がいずれも寺や神社を中心に住居にした形跡からして、一般の武士扱いでなかったことが考えられる。


 後に勝頼は子供等を名のある豪族達と婚姻させて、現在の繁栄に至っております。


 片岡氏が衰退した後も、勝頼(大崎玄蕃)が生きながらえ活躍できた背景には、山本氏との関わりがとても重要な鍵を握っています。

 山本氏は片岡氏と共に長宗我部氏と親しい関係にありました。
 山本氏は、武田家と同じく祖である清和源氏の出です。

勝頼はその山本氏の有力な人物である山本左馬助(横畠左馬助(さまのすけ)に娘を嫁がせました。その山本氏は、土佐を支配した山内氏大庄屋として大きく召し上げられるなど良好な関係にありました。
力のある山本氏と親戚関係となった勝頼は新たな活躍の場を得たと考えられます。
 

 また、玄蕃踊り、玄蕃太鼓や神楽などの芸能の振興にも積極的であった様です。

 ここからが大崎玄蕃(武田勝頼)の本当の伝説の始まりであったのかもしれません、広く各地で残っている大崎玄蕃の逸話が人物の壮大さを物語っております、
 また土佐以降のこの逸話が本当であれば、(本当であってほしい)彼は最も秀でたる戦国武将であり我々の誇るヒーロー像そのものであります。

 そして、この地(土佐)等で25年の間に数々の活躍をされた後...

 慶長14年(1609)8月25日に64歳で逝去され、鳴玉神社に葬ると記録(仁淀川町お呼び佐川町に残る武田家系図に記載)があります。

 鳴玉神社には今も末裔の方々が訪れては綺麗に掃除され、花を献えられております。




 ここまで様々な資料や現地での調査をもとに、武田勝頼がこの地に落ち延び、大崎玄蕃と名を変えて住み着いた伝承について考えてみました。

 単なる伝説、作り話としてしまえばそれまででありますが、私達はこの忘れ去られようとしていた、もう一つの勝頼の物語りに大きなロマンを感じております。

 亡くなるまでの間には、他にも多くの面白いエピソードなどがございます。
私どもで確認出来る資料や史跡にある事柄に限り公開させて頂きました。

 これからも情報は増えるはずですから、どんどん検証して掲載をして行きたいと思います。
もちろん、何か話を知っていたり、資料をお持ちの方とのコンタクトをも心待ちにしております。

          >>>武田勝頼の系図はこちらをクリック<<<


                    
 
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